in a pillar of cloud:晴読 雨読
2012-02-24T17:54:20+09:00
school-t3
日々のこと
Excite Blog
認識より発する愛
http://schoolt3.exblog.jp/17420345/
2012-02-24T17:53:00+09:00
2012-02-24T17:54:20+09:00
2012-02-24T17:53:35+09:00
school-t3
晴読 雨読
・・・・・その人は自分の手近の周囲の個々の人に対しては何の犠牲も払わずに心のままに振舞うている。 自分の欲しいものは何一つ捨てない。 そして人類という空想物に向かって愛をささげる。 その愛はたんなる表象である。 実在として現われてくる個々の人々は面倒くさがり軽蔑する。 そして人類という仮象に向かって自己興奮の甘い涙をこぼす。 その人類はいやらしい顔も、卑しき声も持たぬ仮象である。 その愛はたんなる心持でなんの犠牲をも要求しない。 もし手近にいる醜い女や、うるさい田舎爺を愛することが出来ないならば、その人の叫ぶ人類愛は空しいものである。・・・・・・
**************************************** 義人はいない、一人もいない ( ローマ人への手紙2:25~3:18 )
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安息
http://schoolt3.exblog.jp/17384668/
2012-02-17T12:28:00+09:00
2012-02-17T23:14:58+09:00
2012-02-17T12:28:09+09:00
school-t3
晴読 雨読
大正九年(29歳)のエッセイ「千手観音の画像を見て」で終わっています。
藤原定氏の解説より
「倉田さんほど深く熱く人間を愛し、そのためにまた罪の意識に苦しまなければならなくなり、魂の救済を熱心に、純潔に求めぬいた人がどれほどあるだろうか。 氏ほどに深く人間的な、あまりにも人間的な人、氏ほどにしんけんに生きる道を求め、真率に悩みぬいた人があるだろうか。・・・・」
わたしも改めて読んでこれと同じ感想を持ちました。
まだ若かった頃の私が、ずいぶん心を揺さぶられたのも納得です。
倉田百三氏はこのあと法然上人の「西方浄土」に安息を求めたようです。
わたしは心の問題を未解決のまま、
その後人生の荒波に投げ出されることになりました^^
ところで ・・・・・・・・また、天国をこの世界に実現せんとするキリスト教的世界思想の存在にもかかわらず・・・・という倉田氏の一節。
違うんですよね~
聖書の福音は教えではなく救い。。。。。
哲学と信仰の間には水とぶどう酒の違いがあるようです。
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描きかけの自画像
http://schoolt3.exblog.jp/17341123/
2012-02-08T17:36:00+09:00
2012-02-10T10:07:25+09:00
2012-02-08T17:36:50+09:00
school-t3
晴読 雨読
ー・・・・・血を吐くような深刻な悩みと、砂漠をうろつくような彷徨と、大地のずり落ちるような不安と、 盲目になるほどの迷いとが・・・・・・
倉田百三 「愛と認識との出発」より
若い頃自画像を描いたとしましょう。
鏡が曇っていてよく見えないところがありました。
自画像は描きかけで終わりました。
ところどころ色の欠けた出来損ないの自画像でした。
長い間地下にしまいこんでいた自画像は
時々悪夢のように心によみがえって私を脅かしました。
もうそろそろ終着点。
あの描きかけの自画像を仕上げられるものなら仕上げたい。
不思議ですね。
今は鏡がすっきりとしてよく見えるのです。
どうやら自画像を仕上げることが出来そうです。
「愛と認識との出発」の中で紹介されていた、西田幾多郎 「善の研究」の一節です。
元来精神と自然と二種の実在があるのではない。この二者の区別は同一実在の見方の相違より起こるのである。 純粋経験の事実においては主客の対立なく、精神と物体との区別なく、心即物、物即心、只一個の現実あるのみである。 かくいづれかの一方に偏せるものは抽象的概念であって、二者合一して初めて完全な具体的実在となるのである。
こうなったら西田幾太郎氏も読まなければなりません。
本の断舎離を目的として始まった再読。
どうも本が増えることになりそうです。
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隔世の感 『愛と認識との出発』
http://schoolt3.exblog.jp/17315924/
2012-02-03T14:25:00+09:00
2012-02-10T10:09:18+09:00
2012-02-03T14:25:45+09:00
school-t3
晴読 雨読
今回も、まずはまわりから攻めました。
懐かしい哲学者の名前の数々・・・
感慨無量です。
大学生時代は人を避けて哲学書とロシア文学に没頭していました。
そのころは食べにくい硬い食べ物を無理して噛んでいた感じかな?
社会に出て、本の外の世界に投げ込まれ、
結婚して見ず知らずの人たちが突然家族として日常を支配することを知り、
読書どころではなくなってから、数え切れないほどの年月が流れました。
年齢を重ねたというだけで、難解だった言葉の意味が
今はさらりと理解できるから不思議。
注釈を読み、解説を読み、数人の名前を検索し
ご長男で俳優だと言う倉田地三さんの「父の思い出」を読んで
やっと序文。
それから本文。
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憧憬
ー三之助の手紙ー
哲学者は淋しい甲蟲である。
故ゼームス博士はこうおっしゃった。 心憎くもいじらしき言葉ではないか。
・・・・・・・・・・・
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しばらく読んでいるとK登場。
「う~ん。 今の人たちはこういうものを読まないだろうね。
ちょっと淋しければチャットでもフェイスブックでもまぎれるものはなんでもあるもんね~
隔世の感があるなあ。」
「カクセイって何?」
「隔離の隔よ。」
「ママが隔世じゃない?」
「アハハ。 そうだよね。世の中からはずれてるよね。」
「隔世じゃなくて覚醒って言ったんだよ^^」
「えっ? あぁ、そう・・」
なんて会話がありました
願わくはそろそろ覚醒したいものであります。
「出家とその弟子」は断捨離を免れて殿堂入りです。
若いときの感動はありませんが
今落ち着いて読めることが嬉しいです。
思えばはじめて読んだ時は
登場人物の親鸞が親鸞そのものだと勘違いしてしまって
歎異抄に興味をもったりしました。
今読んでいると、メッセージは聖書そのものであることが多く
真宗の側から見ると不愉快だったかもしれませんね。
一方キリストを信じるものから見ると
福音は語られているものの、十字架による救いではないのでこれもちょっと中途半端。
文学作品としても阿部次郎が指摘しているように
言葉遣いに難がある。
それでも『出家とその弟子』は普遍的な価値を持った作品だと思います。
真理を求めるまっすぐな気持ち。
偽善を憎む鋭い感性。
衒いの無い筆の運び。
・・・好感が持てます。
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倉田 百三
http://schoolt3.exblog.jp/17289859/
2012-01-29T14:15:00+09:00
2012-02-10T10:10:18+09:00
2012-01-29T14:15:17+09:00
school-t3
晴読 雨読
いつもの日曜日は振り替え授業が入ることが多く
めったに完全休みはありません。
さあて、何しましょ。
お洗濯。
それから読書^^
古い本をひっぱりだして読むことにしましたから。
倉田百三は私が中学2年生の頃読んで夢中になりました。
まだ子供だったはずなのにどうしてそんなに心を捉えたのか
大人になった今もう一度読んで探ってみます。
とりあえず「ロマン・ロランの序文」と「阿部 次郎」の評論(「思潮」大正6年掲載)を読んで
今の自分がこの人の本から始まったことを確認できました。
さあ、晴読 雨読 の始まりです。
外は良い天気^^
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